気がつくとこれだけのカメラが私の手元にあった。仕事先で知り合ったおじいちゃんから譲り受けたものもある。マニアなわけではない。ネットにはやっぱりデジカメが便利だし、単なる記録写真はべつに使い捨てでもいい。ただ、ちゃんと撮ってみたいと思うようになってから、重たいカメラをぶら下げ、初めて自分で露出を決めピントを合わせるという手順を踏むようになった。それがローライだった。たかがフィルムを装着するにも手間がかかる。最初は座り込まなければうまくできなかった。でもシャッターを押した瞬間からその面倒くささが吹っ飛んだ。たしかに今撮ったという実感があった。昨今のカメラはシャッターがおりた瞬間もたしかではない。

 昭和40年代に生まれた私はものごごろがついたころには豊かな電化製品に囲まれていた。すでに使う人間はその機械の仕組みを理解できないで使っていた。だからわたしがそのころより古いカメラに惚れ込むのは懐古趣味からではない。過去も未来も関係ないところで魅力を感じるのだ。

 すぐに写真にはまりこんだわたしはモノクロの自家現像、自家プリントに手を出すようになり、おのずと仕組みも理解できるようになった。やり始めるまでは薬剤の調合やらこれまた面倒な作業がつきのもだけど、現像をしだすとあっという間に一日がたつ。

 満足感だけではない。すべてがオート仕立ての写真とはあきらかに結果が違ってくるのだ。うんちくをいいつらねたらきりがないけれど、簡単にいってしまえば、「味わいがある」ということ。インスタントみそ汁とダシからちゃんととったみそ汁との違いだ。人物を撮ればその人間のにおいがぶわっとにおってくるような。

 手元のカメラの中にはフィルムが既に売っていないものもある。それでもカメラのフォルム、質感、色合いどれをとっても存在感がありかっこいいので、立派なオブジェとしてわたしの部屋にかざっている。

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